村の由来と文化歴史

 縄文中期から後期にかけての土器や石器が村内の各所から出土しています。石器の中には長野県で多く産出された黒曜石を使った鏃もみつかっていますので、今から約4千年も前の時代、すでに先住民がこの地でほかの地域との交流を持ちながら生活し、古代から小菅村が人が住むのに適した土地であったことが窺われます。
 古文書や郷土史などから年代が判明している史跡や建造物で古いものとしては、長作古観音堂が大同2年(807年)、湧金山宝生寺が康元元年(1256年)、箭弓神社・山沢神社・八幡神社が文明10年(1478年)の建立と記述されています。また、現存する重要文化財の長作観音堂はその建築様式から鎌倉時代のものと推定されています。
 室町時代には武田家の家臣、小菅遠江守信景が支配していました。小菅遠江守の居城は箭弓神社後方の天神山にあり、その支配地は丹波から落合、柳沢、萩原山、土室沢、さらには小金沢を経て天目山付近まで及んだといわれています。小菅村は武州に接し関東方面に対する要衝の地で、小菅遠江守はこの地の護りにあたっていました。ちなみに小菅遠江守信景が仕えたのは武田信昌で、信玄の3代前の時代です。この時代に小菅村を詠んだ和歌に次の2首があります。

甲斐の国 鶴の郡の 板野なる
しら玉こすげ 笠を縫うらん(詠み人知らず)

はるばると 甲斐の高根は みえ隠れ
板野の小菅 すゑなびくなり(宗祇法師)

 それまで1つの村だった小菅と丹波山が分かれ、現在の姿になったのは豊臣秀吉が天下統一後に行った文禄検地からだといわれています。
 江戸時代には幕府の直轄地で、将軍が鷹狩りに使う鷹を供給するための御巣鷹山が村内にもあり、その管理などの様子を記した古文書が残されています。また、この時代に盛んとなった富士講の供養塔や浄進場といった地名などが、当時の古道沿いに見られます。
 明治時代になり中央線、青梅線などの鉄道が開通、青梅線は昭和19年には奥多摩町まで延長されました。そして戦後の昭和26年に定期バスが村内へ乗り入れるようになり、交易の中心が東京都の西多摩地域へと移り、現在に至っています。

 現存する建物は様式の上から鎌倉時代の物と推定されています。昭和21年11月29日国宝に指定されましたが、法改正により、昭和25年8月29日には重要文化財となりました。古くから口伝悲話の由来があり、安産の守神として信仰され、近隣の市町村からも、多くの人々が参詣に訪れています。